さる12月18、19日、
ひときわ寒さしばれるなか、
令和3年度の報恩講法要をお勤めできました。
前年同様、おとき接待はなし、地区ごとに人数を分けての開催です。
18日お葬式、19日にお通夜が重なり、
合間にお勤めをするという、実にわちゃわちゃな二日間でした。
落ち着いて臨もうと思っても、どうしても浮足立っていたと思います。
さて、今年も阿部信幾先生にお越しいただき、
いくつもありがたい言葉を聞かせてもらいました。
どこにもお知らせしていないのに、
うちの御門徒ではない方々が
愛知・静岡・埼玉・神奈川・富山
からお越しになりました。
2年連続の方もありました。
そのことにびっくりしたあまりでしょうが、
後日うちの御門徒が、
「芸能人じゃないんやからおかしいわ」
と笑っておられました。
『嘆異抄第二条』には
「身命をかへりみずしてたずねきたらしめたまふ
おんこころざし、ひとへに往生極楽のみちを
とひきかんがためなり」
とあります。誰もがそうなるべきということは
ありませんが、わが身の「後生の一大事」なら
真剣にならざるをえないのではないでしょうか。
他者は決して変われない、私のいきさきの話です。
先生の言葉の一端を紹介します。
「死んで行く問題の解決が真宗、他力で助かるんですよ。御礼がなんまんだぶつ」
「後生の一大事、これが大事なんですよ」
「自業自得は仏教の言葉ですよ」
「業の話をしないと、人生がぼやけてわからない」
「行いが違えば、行けるところは違いますよ」
「釈尊はパーリ語の経典で、また夫婦になれますかと問う人に、信心を一つに、行いを同じにしなさい、さすればまた夫婦になれると説いておられる」
そして、他力の信心については、
「しかし、信心は信じ込むことではない、なぜも必要なんですよ」
「何を信ずるかといえば、本願を信ずる」
「私のために選びとられた本願、誓われた行」
「毎日六万遍念仏しておられた法然聖人は、念仏してるのが楽しかったからでしょうね」
「本願を信じ念仏申さば仏になるという教えです」
「十八願を信じたところで往生が決まる」
「親鸞聖人は、一念も多念もとらない。法然聖人は一念多念ではなく、念仏往生と仰っている」
「浄土真宗は救いが先」
「仏さまは決して私に背中を向けないんですよ」
「人が見てなかったら、なんでもやるお互いなんですよ」
「自力の称名は、念仏をお浄土に参る条件にする」
「我々につけるのではなく、自分自身に注文をつけられた四十八願」
「私に伝えなければ、私は救われない」
「法華経で救われるのは菩薩、凡夫は救われない」
「本願を疑うものは三悪道にもどる」
「阿弥陀さまのはたらきに、私の煩悩は邪魔にならない。それは、煩悩具足を救うと誓われたから」
「十七願は、凡夫に知らせる願」
「帰命の命は、いのちではない。勅命ということ。逃げられないということ」
「自力心は仏のはたらきをはねつける。捨てようとするのも自力。他力によって、阿弥陀のはからいにであったから用事がなくなる」
「自然ということが大事」
宗祖が十八願を「念仏往生の願」と呼ばれた背景
には、数えられる行いとしての念仏ではなく、
法然聖人が「念仏往生」と仰られた深いおこころが
あったことをあらためて確認できました。
仏法は不思議です。
知り学ぶことは当面大切ですが、
「学仏大悲心」ゆえに、
学ぶことは決定的な要因ではなく、ただ、
学んでも学んでもよろこびが尽きることがないというだけのことなのです。
法然聖人は、最期の時が近づくと、一万増えて七万遍になったといいます。
それだけ味わっても味わっても尽きることがない、
大きな仏心をいただいておられたのでしょう。南無阿弥陀仏
