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浄土真宗本願寺派 清凉山 慶円寺 | 岐阜県本巣市上真桑1046

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雑感(おうじょう)

雪が降るたびに、およそ言葉には厳格であろうN〇Kでさえも、
「立ち往生」という言葉を連呼します。
関西のベテラン漫才師も、決め台詞が「往生しまっせー」。
そして、この美濃地方ではさらに発展し、
近所のお年寄り(特に男性)「往生こいたわ」。

しかし、「往生」という文字を一文字ずつ真向いに見てください。
往くに生まれる。
この言葉自体にはどこにも、「困る」という意味はないのです。
往生極楽、往生浄土。
極楽に往き生まれる、浄土に往き生まれる。

往生は、そもそも、お経の言葉、すなわち仏さまの言葉。
どんづまりに向かっていく我々に授けてくださった、救いの言葉であります。

それを、屁のように、こいたと言って笑っているのはよろしくありません。
むしろ、とても罪が深いことですね。
それは、さながら、自分を足下で今現に救おうとはたらいているものを、
自分で茶化しながら壊す行いにも等しいからです。

「立ち往生して困る」と言いますが、
本来の意味からいけば、立ったままでも往生できたのなら素晴らしいことなのです。
何も困るようなことはありません。

往生は、死を通してしか成立しえないものです。
死ぬのは困る、その思いから往生が困ると直結してしまったのでしょう。
「立ち往生」のイメージが日本全国津々浦々広く共有されているところに、
我々の煩悩のえげつなさと救われ難さを感じずにはいられません。

とにもかくにも、「往生」という文字をちゃんと見てもらいたいです。
「往生こいた」は悲しいです。